人生いろいろ 新書もいろいろ
第62回 2006.06.03
《セ章 世界一受けたい新書授業 ガイダンス(3)》
ディアスポラとポストコロニアリズム
H.ゴヤ
「ディアスポラ紀行−追放された者のまなざし−」徐 京植
岩波新書 (推薦度)○
「ポストコロニアリズム」(2005) 本橋 哲也 岩波新書
(推薦度)○
高田馬場に行くと必ず芳林堂書店に顔を出す。新書コーナーで立ち読
みをしていると「ディアスポラ」という文字が入った新書が目に入る。
サブタイトルの「追放された者のまなざし」がやけに興味をそそる。
パラパラとページをめくると著者の徐京植(ソ・キョンシク)は韓国
で刑務所に入れられた徐兄弟の弟である。面白そうなので、「ポスト
コロニアリズム」とあわせ購入する。
先ず、徐氏の「ディアスポラ紀行」から読む。
徐京植氏は、1951年京都市に生まれ、早稲田大学第一文学部(フラ
ンス文学)卒業。
現在は、作家・東京経済大学現代法学部教員。
また、季刊『前夜』編集委員を務める。
著書に、『過ぎ去らない人々―難民の世紀の墓碑銘』『半難民の位
置から―戦後責任論争と在日朝鮮人』『秤にかけてはならない―日朝
問題を考える座標軸』(以上、影書房)、『私の西洋美術巡礼』(み
すず書房)、『子どもの涙―ある在日朝鮮人の読書遍歴』(柏書房)、
『プリーモ・レーヴィへの旅』(朝日新聞社)、『青春の死神―記憶
のなかの20世紀絵画』(毎日新聞社)。
共著に『断絶の世紀 証言の時代』(岩波書店)、編訳書に『徐兄
弟 獄中からの手紙』(岩波新書)がある。
表紙裏の解説では、「出自の共同体から追い立てられ、離散を余儀
なくされた人々とその末裔たち、ディアスポラ。自らもその一人であ
る在日朝鮮人の著者が,韓国やヨーロッパへの旅の中で出会った出来
事や文学、芸術作品に、暴力と離散の痕跡を読み取ってゆく。ディア
スポラを生み出した近代とは何であったのか、近代以後の人間はどこ
に行くのかを深く思索する紀行エッセイ」とある。
冒頭の写真は、中を読んだ時にはじめて理解できたが、文承根(ム・
スングン)の活字球とシリン・ネシャットの「歓喜」シリーズが掲載さ
れる。
プロローグ―わだちのフナ
「ディアスポラ」とは、ギリシア語で、「(1)離散。(2)パレスチ
ナから他の世界に離散したユダヤ人。またその共同体。」のことで
ある。ユダヤ人に限らず、「自らが本来属していた共同体から離散
することを余儀なくされた人々、およびその末裔」を指す言葉とし
て、ディアスポラを用いる。奴隷貿易の対象であったその子孫のブ
ラック・ディアスポラや、19世紀後半の多数の中国人が下層労働者
として全世界に流れていったチャイニーズ・ディアスポラもある。
徐氏は、植民地支配、地域紛争や世界戦争、市場経済グローバリ
ズムなど何らかの外的理由によって、多くは、近代が生み出す「暴
力」により、共同体から離散することを余儀なくされた人々共同体
から離散することを余儀なくされた人々、およびその末裔を指す言
葉として「ディアスポラ」を用いると言う。朝鮮人も過去1世紀の
間に相当数の人が世界各地に離散し、コリアン・ディアスポラは600
万人いて、在日朝鮮人はその1員であり、徐氏もその1人であると書
く。
在日朝鮮人とは?徐氏は父の徐承春が1928年に6歳の頃、祖父に連
れてこられ、朝鮮半島の忠清南道という地方から日本に渡ってきた。
その4男として1951年に生まれた在日朝鮮人2世と述べる。徐氏は、
日本人は「朝鮮」「韓国」について誤った使用をしていると書く。「朝
鮮」は「民族」を表わす言葉であり「韓国」は「国家」を表わす用語で概念
のレベルが異なるとする。その背景には「民族」と「国家」とを同一視
して疑わない単一民族国家幻想が根強く横たわっているからとする。
徐氏は、日本・中国・旧ソ連・ヨーロッパなどに広がる朝鮮民族
は「朝鮮人」と呼ぶのが適切であると言うが、「韓国人」「韓人」「高
麗人」「コリアン」と様々な呼び方があり、植民地支配、民族分断、
民族離散を経験した朝鮮民族の現実を物語っている。「韓国」は民
族全体の広い生活圏から見れば、その1部分を占める国家の総称に過
ぎないという。
徐氏の場合、民族的には「朝鮮人」、国民としては「韓国人」である。
母語と母国語についても徐氏の母語は日本語だが、母国語は朝鮮
語であると書く。
田中克彦を引用し、母語は「生まれてはじめて身につけ、無自覚の
ままに自分の中に出来上がってしまった言葉」で通常母から子へと伝
達されるので「母語」と言う。他方、「母国語」は自らが「国民」とし
て属している国家、「母国」の「国語」を指す。言語マイノリティは1国
家内部で、その国のマジョリティとは異なる母語を持つ人がいる。
徐氏は、在日朝鮮人は植民地被支配者の末裔でありながら、旧植民
地宗主国に生まれたため、支配者の国語を自らの母語とするという
皮肉な運命を与えられたのである。
在日朝鮮人と「国籍」については、徐氏は50年以上日本に住んで
いるが、国籍は「韓国」であり、「日本」ではないという。在日朝鮮人
は大きく言って、徐氏のような「韓国籍」保持者、「朝鮮籍」保持者、
日本国籍保持者に3分される。1947年在日朝鮮人を「外国人とみなす」
とする外国人登録令が発布され、在日朝鮮人は外国人登録手続きの
際、自己の「国籍」を申告し記入しなければならなかったが、当時朝
鮮人の独立国家はなく、国籍欄に「朝鮮」と記入した人が多数いたの
である。
日本政府は北朝鮮との対立を深める中、1965年の日韓条約締結に
よって韓国のみ国交を結んだため、在日朝鮮人の居住権において、
「韓国籍」と「朝鮮籍」との間に不当な差別を設け「朝鮮籍」のとどま
る人々に不安定な法的地位を強いた。観方を変えれば、日本政府と
韓国政府は、在日朝鮮人の1方は難民状態を強いられ、もう1方は韓
国国民という枠内へと囲まれてきた。
徐氏に拠れば、「韓国籍保持者」のため、日本に生まれ育ち、日本
に自宅と職場があるが、韓国のパスポートがなければ日本国外には
出られず、日本政府の「再入国許可証」がなければ自宅に帰ること
が出来ないと言う。当然といえば当然のようであるが少し理不尽で
ある。徐氏は1970-80年代韓国が軍事政権であった頃、2人の兄が政
治囚として投獄されていたため、パスポート入手に嫌がらせをされ
たと書く。
「朝鮮籍」在日朝鮮人は無国籍状態にある。例外的に朝鮮民主主義
人民共和国のパスポートを取得するものもあるが、それ以外の人は
パスポートがないまま「再入国許可証」だけを持って出かける。
T.死を想う日―ロンドン 2001年12月
徐氏は1983年初めてロンドンに滞在した時、マルクスの墓へ行く。
マルクスもユダヤ人の子として生まれ、31歳の時にロンドンへ亡命
し、1883年に死ぬ。彼もディアスポラの1人であった。徐氏は1996年
にイスラエルに行った話しを書く。現代イタリアを代表する作家プ
リーモ・レーヴィはアウシュヴィッツに幽囚されていた。レーヴィ
は「ユダヤ民族の避難所」としてイスラエル国家が存在することを
説いた。しかし1982年のレバノン侵攻に際し、レーヴィは反対の声
明を出し、イスラエルが「攻撃的意味でのナショナリズム」が強ま
っていることを憂慮した。レーヴィは「自分達ディアスポラのユダ
ヤ人は、イスラエルで強まっている攻撃的ナショナリズムに『抵抗
する責任』がある、ディアスポラが育んできた『寛容思想の系統』
を守るべきだ」と主張した。さらに、「ユダヤの文化の最も優れた
部分は離散状態にあること、多中心的であることと関係している」
と述べたと徐氏は書く。
徐氏は、「どこで、どう死のうか。いつもそのことが気にかかる」
と書き、特に外国に来たときは日頃漠と感じていた事がはっきりし、
こういう感情をディアスポラ的と書く。在日朝鮮人の自殺率は日本
人より高いと確信するが、エネルギッシュで生命力が旺盛というイ
メージがあるが、徐氏は怒るときに悲しげに微笑み、ろくに言いた
いことを言わないで死んでしまうと書く。朴景在(パク・キョンジェ)
が帰化手続により日本国籍になり、その後代議士になり、名前を新
井将敬としたが、徐氏は、彼の自殺に関し「日本人の心」ではなく
「マイノリティの心」がゆえ、また議員に必要な地盤である「ムラ」
が無かったため自殺したとする。
日本での、死者が出たときの葬儀社の話が書かれ、葬儀社が葬式
のプロセスをてきぱきとこなすのを見て、徐氏は「死者の国民化」
と名付けた。これは日本人が共同体による弔いの儀礼に浸りきり、
無意識のうちに弔いの儀式を通じて「国民」として統合されている
からだと説明する。そして在日朝鮮人は、自分がその枠からもはみ
出していることに死んでから気づくと纏める。
ベネディクト・アンダーソンを引用し、徐氏自身の言葉で、「諸
個人は運命の偶然性と有限性から逃れることは出来ない。もはや宗
教思想が頼りになれないとすれば、何を頼りに人間は死という究極
の宿命性に耐えればよいのか。そこで、永遠不死のものとして『国
民』という観念が登場する」書く。
個人=「私」の死は有限だが、「国家」や「国民」は無限であり、「国
家」や「国民」のために死ねば、その「死」は不死となる理屈である。近
代ナショナリズムが造り出した「国民」という観念、国土や血縁の連
続性、言語や文化の固有性といった幻想によって構成されるこのて
ごわい観念は、人間の死へのおそれ、不死の欲望によって支えられ
ている。自らの財産、血統、文化を永久に残したいという欲望がナ
ショナリズムの土台にある。
ワグナーの音楽世界、ドイツ・ロマン主義を代表する画家フリー
ドリッヒの絵画世界を描き、1970年代の詩人・金芝河(キム・ジハ)
を例に挙げ、金哲(キム・チョル)の主張は「韓国民主化闘争におい
て決定的に重要な役割を果たした民族―民衆文学論が、今日ではか
つては闘争の対象であったファシズムと信条や論理を共有し、相互
浸透し、ついには共犯関係を構成するという『抜け出す道のない矛
盾と背理に陥ってしまった』」ことであると徐氏は書く。
U.暴力の記憶―光州 1990年3月・2000年5月
長年獄中生活をした兄徐俊植は1988年に出獄し、残る徐勝の出所
を迎えに行くため徐氏は1990年ソウルに滞在したが、その際1980年
の光州(クアンジュ)事件で犠牲になった人々が眠っている望月洞(マ
ンウォルドン)の墓地を訪れる。80年代中ごろのアメリカ地方都市
でのコリアン・ディアスポラに会うが彼女の弟は政治犯で光州の監
獄にいる話が徐氏によって語られる。光州矯導所(キヨドソ)=監獄
までタクシーで乗りつけ、非情な時代の記憶、最も陰惨な暴力の記
憶がぎっしりと詰まった高い塀の建造物を外から徐氏は眺めたので
ある。
2000年に再び徐氏は光州に行くが、光州民主抗争20周年記念行事
で演奏される曲の中に尹伊桑(ユン・イサン)の「光州よ、永遠に!」
があった。この曲は全斗煥政権や慮泰愚政権の時には演奏されるの
が長く禁じられていた。尹伊桑は1950年代に西ドイツに移り、1度
KCIAによってソウルへ拉致連行された。危うく死地を逃れて西ドイ
ツに生還した彼はその後、旺盛な作曲活動を重ねながら現代音楽の
世界に確固とした地歩を築く一方、海外における韓国民主化運動の
リーダーの役割を担った。また徐氏は国際美術展である光州ビエン
ナーレを見ることも目的の1つであったと書く。アフリカのロムア
ルド・アズメの廃品を利用してつくったオブジェ、在米コリアン・
ディアスポラの1970年生まれのニッキ・S・リーの写真について徐
氏は語る。その中で、「在日朝鮮人がそうであるように、ディアス
ポラであることの特徴は『自分が何者なのか?』という問いから逃
れられないということだ。私自身、物心ついて以来この問いと縁の
切れたことがない」と自分を描く。
徐氏は、高校3年の時初めてフランツ・ファノンを読み、激しく
撃たれ、受験勉強を放り出して読みふけったのが『地に呪われたる
者』であるらしい。植民地主義とは、
@他者の系統だった否定
A他者に対して人類のいかなる属性も拒絶しようとする
Bそれ故に、被支配民族を追い詰めて、「本当のところ俺は何者か」
という問いを絶えず自分に提起させる
もので、徐氏には神の啓示のような言葉であったと書き記す。それ
は徐氏個人に起きていることではなく、植民地主義によってディア
スポラとなったものすべてに起きていると断言する。
フランツ・ファノンは「ポストコロニアリズム」に詳しいのでそ
こで読む。
光州ビエンナーレで大賞を受賞したのはシリン・シャネットであ
った。この新書の冒頭の写真で説明されている「歓喜」であった。
徐氏はこの後、田中克彦を引用し、ディアスポラにあっては祖国、
故国(自分の生まれた国)、母国(国民として属している国)の3者が分
裂しておりそれがディアスポラ的生の特徴であると述べる。在日朝
鮮人の祖先の出身地(祖国)は朝鮮半島、それも現在のように分断さ
れる前の朝鮮半島である。しかし、在日2世、3世が生まれた場所(故
国)は日本である。彼らが「国民」として属している国(母国)は韓国、
日本、朝鮮民主主義人民共和国に分かれており、彼らのあるものは
「朝鮮籍」という事実上の無国籍状態にある。しかも、彼らの故国・
日本はかつて彼らの祖国・朝鮮を植民地として支配したのであり、
いまもそのことを本当に反省していない。つまり、祖国・故国・母
国の3者が分裂し相克している…。このように徐氏は在日朝鮮人の置
かれた境遇を強くアピールし、日本に対し反省を求め、差別をやめ
るよう訴えているのではないかと読みこんでしまう。
イラン系アメリカ人のシリン・シャネットはまったく相容れない
価値観のアメリカとイランという2つの国の内、一方を祖国・故国と
し、他方を母国としている。当然、分裂と相克は自我の内面までに
及ぶと解説する。
高山登(コリアン・ディアスポラ)の枕木を使った作品群、゙良奎
(チョウ・リャンギュ)の「マンホールB」、文承根(ム・スングン)の活
字球など徐氏によって語られる。
V.巨大な歪み―カッセル 2002年8月
2002年8月《ドクメンタ11》でウガンダ出身のザリナ・ビムジの
『OUT OF BLUE』を観た感想が徐氏によって綴られる。15分ほどの
上映の中で、静寂と不在、むっとする暴力の気配が感じられたとあ
る。
《ドクメンタ》はドイツ、カッセルで5年に1回開かれる現代アー
トの国際的展覧会である。今回はナイジェリア人のエンヴェゾーが
総監督になった。徐氏は兄2人の入った韓国の刑務所に何度も通う
が、その刑務所(監獄)の独特なにおい、雰囲気、名状しがたいいや
な記憶がザリナ・ビムジの『OUT OF BLUE』にあると書く。
インド系であるウガンダ生まれの女性ザリナ・ビムジについては、
1962年の独立後、1971年アミンがクーデターを起こし、ウガンダ国
籍を持たないアジア人を国外追放したが、ザリナ・ビムジは10歳そ
こそこの年であった。彼女によって、外国人排斥と内戦の恐怖はこ
の『OUT OF BLUE』で再現され、高度な普遍性を獲得し、そのことが
徐氏の東アジア・ディアスポラの心に共振を起こしたと書く。
徐氏は、「アミンによる追放策の乱暴さと愚かさを非難するのは
難しくない。しかし、植民地支配のよってその原因を作ったイギリ
スが、まるで自らは第3者であるかのように振舞うのは偽善ではない
か。植民地主義そのものを起源にさかのぼって根本的に批判しなけ
れば、何かを本当に批判したことにはならない」とし、エドワード・
サイードの言葉を引用する。サイードも「ポストコロニアリズム」
に詳しいのでそこであわせて読む。
《ドクメンタ11》に出展する、インカ・ショニバレ等ディアスポ
ラ・アーティストたちの作品は展示全体からみれば1部分であるが、
帝国主義による植民地支配によって何世代にもわたって加えられて
きた「巨大な歪み」を問題にしている。
W.追放された者たち
フェリックス・ヌスバウムの「ユダヤ人証明書を持つ自画像」の
絵が冒頭から掲載される。徐氏はP157以下で、「これは『ユダヤ人』
の自画像ではない。亡命者の自画像であり、ディアスポラの自画像
である」とこの絵を解説する。また、この絵の前で、自分の外国人
登録書を左手に持ち、ヌスバウムの自画像と同じポーズで掲げて見
せ撮影させたが編集時にカットされたという。
亡命ユダヤ人ジャン・アメリーはブレーンドンク要塞(強制収容所)
でSS(ナチ親衛隊)のより拷問を受けた話、そのブレーンドンク要塞
を徐氏が訪問し詳細な解説を加える。徐氏は監獄や収容所を5感で感
じさせるほど表現が巧みである。
1904年生まれのフェリックス・ヌスバウムの父は当時の典型的な
同化ユダヤ人であったがドイツ人としては扱われなかった。ヌスバ
ウムはドイツ人マジョリティへの同化とユダヤ人としてのアイデン
ティティの保持の葛藤が彼の芸術のモチーフになったと徐氏は書く。
ヌスバウムは妻フェルカ・プラテックとともに1944年逮捕されアウ
シュヴィッツに送られすぐに処刑された。
シュテハン・ツヴァイクは1881年裕福なユダヤ人家庭に生を受け
第1次世界大戦中にロマン・ロランと知り合い、戦後もヨーロッパの
文学者・音楽家・芸術家と親交を結び芸術の振興と反戦平和の理想
を掲げた。1933年ナチによる追放図書の焚書が行われたがツヴァイ
クの著作も含まれていた。34年ツヴァイクはイギリス移住を決意す
る。42年ブラジルに身を寄せていたが、リオのカーニバルの最中に
日本軍によるシンガポール陥落の報を聞き、妻とともに服毒自殺し
た。
ジャン・アメリー(1912-78)、プリーモ・レーヴィ(-1987)、パウ
ル・ツェラーン(1920-70)の三人のユダヤ人がともにナチによる迫害
を受けたが、それぞれの生涯を徐氏が彼らの言葉を通じて紹介する。
エピローグのコリアン・ディアスポラ・アートと合わせ、一読い
ただきたい箇所である。