特集:江戸時代を考える
      《その2》

2008.04.05
担当:tr


今回は、江戸時代に関するいくつかの定説あるいは思い込みについて、実際はどうだったのかを考察してみます。


その1::百姓は『生かさぬよう殺さぬよう』に代表されるようなカツカツの
     生活を強いられていたのか


《事実の確認》
1.生かさぬよう殺さぬよう
 『百姓は生かさぬよう殺さぬよう』というのは徳川家康が言ったことば、とよく言われますが、出典は確認できませんでした。
 同じく家康が言ったとされる『百姓は、知らしむべからず依らしむべし』も同様です。
 家康の腹心だった本多正信の『本佐録』という書物に『百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也』ということばがあります。『生かさぬように・・・』と比べると、かなりソフトですね。
 『財の余らぬように・・・』の前には、次のような文言もあります。
  『百姓は天下の根本なり。是を治むるに法あり。先一人々々の田地の境目
  をよく立て、扨壱年の入用作食をつもらせて、其余を年貢に取べし』
 『其余を年貢に』と言っていますから、『生かさぬように』とはかなりニュアンスも違うようです。また、別のところで次のようにも言っています。
  『賢者賢臣とは、智勇相兼て、無欲なる人なり。君と臣と財宝を好むとき
  は、天下の万民困窮して天道に背き、人民にうとまれて其身かならず亡ぶ』
 こうなってくると、『百姓は生かさぬよう』というよりも、一般論としての無欲とか質素というものがベースにある、と思えます。誰ということなく『贅沢しちゃいかん』という道徳を説いているようです。

2.『百姓』ということばの意味
 百姓=農民という意味になったのは、江戸時代より後のことと思われます。
 もともと中国で天下万民という意味で使われており、わが国でも近世以前では、支配層が統治の対象とする人々を包括的に百姓と呼んでいたようで、現実に農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などを営む者も含んでいました。百姓=農民というのは、後に特定のイデオロギーにとらわれた人々によって持ち込まれた偏った概念ではないでしょうか。
(百姓ということばは、差別的な意味があることから現在は放送禁止用語になっているそうですが、差別的ないみはもともとないので、この一文ではこの単語を使わせていただいています)

《評価》
 本多正信の『百姓は財の余らぬように、不足になきように』は、戦国時代の乱世が終わり安定した時代を迎えようとしていたタイミングにおいて、為政者が人民を統治するための理念としていた、と考えれば、それほど突飛でも残酷でもないように思われます。まして、一般論として無欲・質素を旨としていたのならなおさらです。

《考察》
 実際には百姓の暮らしはどうだったのか、考察してみます。
1.五公五民や六公四民といった重税?
 確かに重い租税を取られたケースもあったようですが、いずれにしても、これは米を対象とした話。実際の農村では早くから米以外の作物・商品作物が生産されていたようです。
 ちょっと考えてみればすぐ分かることですが、江戸・大阪を始めとして、各藩の城下町、門前町、あるいは佐渡などの鉱工業都市などがどんどんできてきたのですから、商品作物が流通しなければ町の人々の生活は成り立たなかったわけです。商品作物の生産からその流通(商流と物流)までを業とする動きが村方から出てきてもなんの不思議もありません。飢饉による餓死ということはあったとしても、農村が平常の状態で構造的に食うや食わずだったと考えるのは偏った見方でしょう。

2.食えない民が武装蜂起して一揆を起こした?
 中世後期の日本社会は、様々な階層の人々が同等な立場の者同士で契約を結び、自らの権利行使基礎を確保していました。その契約を一揆と呼んだのです。言い換えれば正に一揆こそが社会秩序だったと言えます。
 確かに一揆は江戸時代に禁止されましたが、村は支配者との取り決めのもとに、自分で掟をつくり、動くという考え方は脈々と生きており、村の権利を脅かすようなことには一致団結して抗議しました。
 実際に、以前からの約束を官が一方的に反故にしたことに対して、その契約違反に抗議するという形で一揆は起きており、禁止されてはいましたからその首謀者は処罰されましたが、その要求そのものは通っていることも多いのです。
 もともと食うや食わずの農民が飢饉などでいよいよ食えなくなったときに武装蜂起して暴動を起こし鎮圧された、という一揆のイメージは、支配者対被支配民の構図の中で弾圧が起きる、という階級闘争的歴史観に偏った見方ではないでしょうか。
 余談ですが、『江戸時代に一揆は禁止されていた』というのは、どこに成文化されているのでしょうか。実はあまりはっきりしていないようです。
 公事方御定書(1742年)という刑事法令集には『徒党強訴逃散』は首謀者死罪などとなっていますが、『一揆』という表現はありません。その後何回か同様の禁が『触れ』という形で高札に掲げたりされますが、やはり『一揆』とは言わず、『徒党強訴逃散は法度』ということになっています。
 要求を通すために『徒党強訴逃散という方法を取ったら首謀者を罰する』ということが定められていたのであって、それでも要求そのものは通ることも多かった、というのが妥当な解釈ではないでしょうか。
 それにしても江戸時代の法律はなかなか解釈が難しいところがあるようです(後述)。

3.享保の改革を皮切りに定免法などの租税強化があった?
 享保の改革で、作柄に関係なく年貢を一定とする定免法になり、この税率を上げることで課税が強化された、とは、従来聞かされていた歴史解釈ですが、そうではない、という証拠がたくさん見つかっています。
 それまでの、実地に作柄を検査して年貢を決めるという検見法は、検見使の腐敗がはなはだしく、定免法に変えてくれという要望が天領である佐渡の百姓から出たというのが記録に残っています。
 また、定免の額は3年ごとに見直され、その際検見法に戻るかどうかも百姓に下問されましたが、定免が選択されていました。佐渡の場合では逆に、定免法採用から30年後に百姓の同意を得ずに検見法に直そうとする奉行に対して一揆が起きたほどでした。
 定免法の年貢米を納めれば後はかなり自由が利く、新田開発してもよいし、米以外の作物をせっせと作るということも可能だった、ということで、農村にとってはこちらこそ望ましかったのだと容易に推測できます。

その2:士農工商という固定された身分社会だったのか
《身分は固定されていたのか》
 私の子供時代の記憶では、
江戸時代は厳しい身分制社会で、まず、武士が国を統治し、農は米を作るから武士の次に偉く、その次に偉いのが工(職人)、商人は何も生産しないから一番下だ
と教えられました。
 実態はどうだったのか。
 まず、士農工商ということば自体が明治になってから使われ始めたもので、江戸時代には一部の学者を除いてほとんど使われていない。
 また、私が教えられたような4階層の身分ではなくて、武士の下に同格で町人(町を単位として統治される)と百姓(村を単位として統治される)がいたというのが実態でした。
 そして、町人と百姓の間には身分の壁は基本的になく、行ったり来たりがあった。これは前述の百姓ということばの意味からも、単に住んでいる場所の違いに過ぎない、とも言えます。
 さて、武士と町人・百姓との身分上の壁ですが、これはありました。ただし、一握りの上級武士だけの話で、下級武士と町人・百姓との間の往来は想像以上に多かったようです。
 第一に武士から町人・百姓への流れ。これはちょっと考えれば当たり前で、武士の子供は跡継ぎ以外は、他家に養子に行くか嫁ぐか、あるいは、武士の身分を捨てるしかない。一握りの上級武士と言ったのは、次男以下にも捨扶持を与えられる余裕のある武士という意味で、全人口に占める割合で言えば間違いなく1%以下です。
 あるいは大名がお取り潰しになっても新しい主が見つけられない武士は、身分を捨てるか浪人という立場になったわけです。
 次に町人・百姓から武士になるということも、結構あったらしいです。特に代官所などの最下級役人には百姓からの取立てがかなりありました。もちろんお金で買う、ということもありました。
 要するに一握りの上級武士以外は身分など固定されていない、という方が当たっています。
 むしろ、武士の中での身分による取り扱いの違いの方が激しかったのではないでしょうか。
 幕府直参では、石高で表現され将軍へのお目見えを許される旗本と、俵で表現されお目見えできない御家人。
 諸大名についても、石高に応じて大名行列の規模や江戸城内での居場所や、その他こまごまとしたことが一つ一つ区別されていました。
 また、有名な話としては、土佐藩では、移封されてやってきた山内家の家来を上士と呼び、土着の長宗我部侍を郷士と呼んで、その間に厳しい差別があったようです。
 身分による差別ということでは、むしろ武士の中の世界で必死になって序列を作り守ろうとしていた、ということでしょう。

《法律について》
 ここで一つ触れておきたいのは、法律についてです。
 百姓・町人に対して出された禁令をもって身分差別的な統治が行われていた証拠とする、という考え方があります。
 『慶安御触書』や『田畑永代売買禁止令』などというものですね。どんなことが書いてあるのかちょっと慶安御触書を見てみましょう。

慶安御触書抜粋(1649年)−意訳
一、公儀御法度を恐れ、地頭・代官をおろそかにせず、名主・組頭を親と思え。
一、早く起きて、朝草を苅り、昼は田畑耕作し、晩には縄をない、俵を編み、
  油断なく仕事せよ。
一、酒・茶を買って飲んではいけない、妻子も同様。
一、百姓は衣類も布木綿以外着てはならない。
一、普段はなるべく粗食にせよ。ただし田畑仕事が忙しいときは、普段より
  少したくさん食べさせれば、皆精を出して働くことも心得よ。
一、商は上手にして、収入を持上げるようにせよ。上手にやらないと他人に
  してやられる。
一、たばこは吸うな。食にも成らず、金もかかり、火の用心にも悪い。万事に
  損である。


 これは法律というより道徳ですね、お上を敬い質素な生活を旨とせよ、という。
 幕府お膝元の江戸だけ見ていると、質素にしなかった商人が罰を受けたとかという話を耳にしますが、村でこんなことを言ってもだれも相手にしませんよね。
 しかも『禁令』というのは現にいまそこで起きているからこそ『それ禁止!』となるのですが、それが現に起きていることにはちゃんと理由とか原因があります。そこを考えないで『禁止』と言っても禁止にできるわけがありません、特に村方ではだれも遵守を監視できないのですから。実際、村方では違反者が処罰されたなどという話は記録にもないようです。
 それよりもむしろ、自分たちで作った村掟などに従って百姓たちは活動していました。様々な掟があったようですが、代表的なのは山の利用法や水の分け方などについての取り決めでしょう。それぞれが権利を主張しながら、それがバッティングするところを調整する、あるいは抜け駆けを許さない、というようなことを皆の合意事項として取り決め、遵守を監視しました。
 村には自治があった、と言ってもいいでしょう。
 今日に残る法令集を根拠に、厳しい身分差別の元に置かれていた、と結論するのはなかなか無理があるようです。

 ついでに触れますと、この慶安御触書、徳川政権の対農民政策を象徴する文書と思われてきましたが、原本が見つからなかったり、全国的に適用されたのか、天領・旗本領に対する限定的な法だったのかも、異論があります。近年では「慶安御触書」を記載しない歴史教科書も多いそうです。どうも私たちが少年時代に教えられた江戸時代史研究には怪しいところがあると感ぜずにはおられません。

その3:江戸時代の三大改革とは
 享保の改革、寛政の改革、天保の改革の3つを持って江戸時代の三大改革という、とはかつての日本史の通説なのですが、これもどうも怪しい気がしてきました。例えば、享保の改革と寛政の改革の間には田沼時代というのがあるのですが、これはなぜ『田沼の改革』(仮称)と呼ばないのでしょうか。

1.改革の評価
 下表に3つの改革の内容を簡単にまとめてみました。
















 寛政・天保の両改革は、質素倹約と借金踏み倒し以外にはなにもない、あるいは武士のこと以外なにも考えていない、と言えそうです。株仲間の解散などは、歳入減になる政策ですが、解散してその代わりにどうするか、というところがないので、丸損のようです。
 これでは長続きするはずがありません。両改革とも6年とか2年で責任者が失脚しているのも頷けますね。
 その点、享保の改革というのは、新しい開発を行った点と江戸の街づくりをした点で、長続きしました。町奉行大岡忠相が、大岡政談として残るところを見ると、一定の支持も受けたようです。
 しかし、この享保の改革もその本質は農業を基本とする国づくりでした。物価安定策や為替安定策には結局失敗しています。そして、新田開発は武士の収入たる米の値段を下落させるようなことにもなりました。

 付言すれば、徳川家康が目指した農業を基本とする国づくりというのはその最初から無理があったと思われます。その理由を箇条書きにします。
 ・すでに信長・秀吉時代に貨幣経済がどんどん進行
 ・参勤交代などの移動制度は貨幣経済が前提で、かつサービス業の発達を
  促す
 ・江戸という大都市の運営も貨幣経済が前提で、かつ商工業の発達を促す
 具体例を一つあげてみましょう。
西日本の天領で収穫された年貢がどうなるか、というケースです。

西日本天領 → 大阪の  → 売却 → 売却代金の → 江戸にて
の年貢米    幕府倉庫           為替化       為替を換金
        ↑          ↑       ↑          ↑
     輸送費用    市場運営費用   為替発行     換金手数料
               売却手数料     手数料        両替差益

 西日本天領の年貢米(入口)が幕府によって消費される(出口)までの間に、どれだけ商工業・サービス業へ付加価値が流れていくか、お分かりいただけるでしょう。その付加価値の分だけ町人・百姓の暮らしは豊かになっていきました。その分を新たな課税対象にしなければならないはずですが、武士の俸給は相変わらず米本位、庶民の豊かな暮らしに武士もあやかろうとすれば、借金がかさんでいくしかなかったと言えます。
 寛政・天保の両改革の質素倹約・借金踏み倒しは悲鳴にも似た対症療法でした。

 『改革』というのは社会の変化を取り込んで社会の仕組を修正し、社会不安が発生しないようにすることです。社会の変化そのものを否定したのでは成功するはずもなく、むしろ幕府の威信や信頼感を失わせることになりました。それが最終的には徳川幕府の瓦解につながったのでしょう。

2.田沼時代
 では、享保と寛政の間にあった田沼時代はどう評価したらよいのでしょうか。実は徳川時代が曲がりなりにも250年も続くことに貢献したのはむしろこちらの方だったのではないかと思われます。
 主な施策を見てみましょう。
 ・商工業に積極的に株仲間を結成、そこから冥加金・運上金を徴収
 ・俵物などの専売による外国貿易の拡大
 ・蝦夷地や印旛沼などの開拓
 ・蘭学の保護、武士以外からも人材登用
 『蝦夷地・印旛沼』を除けば時代の流れにあった無理のない項目に見えます(印旛沼は、その開発の失敗が田沼失脚の一因になったようです)。
 特に株仲間の結成については、物品特に日用品の安定供給・品質管理・不正防止を業者に自主管理させようとしたのがその狙いだったそうで、後に言われるように特定業者に排他的な特権を与えその見返りに賄賂を取った、というのは、結果としてその弊害が生じた側面のみを強調する議論です。
 しかし、その弊害が生じることは当然予想されることで、これに対する方策(例えば目付け役の強化)がなかったところが田沼失脚の最大の要因になりました。
 そして、保守派が台頭し、いかにも無理筋の『質素倹約・借金踏み倒し』を基本とする寛政の改革が登場したわけです。
 寛政の改革挫折後は、文化文政時代(将軍家斉による大御所時代)という田沼時代を上回る賄賂時代が到来しますが、ここでは田沼時代の悪弊ばかりが真似され、賄賂政治が横行し、財政難克服の対策もなにもなく、ただ、貨幣の改悪を 繰り返してその場をしのぐことになりました。

 ちなみに、田沼時代における弊害は、諸侯が土地に縛られるという封建国家を商工業中心の近代国家に生まれ変わらせるために乗り切らなければならなかったもので、その方策は最終的には民主主義による政治と三権分立による統治ということになるのではないでしょうか。


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改革の主な内容
期間 歳出 歳入 その他
享保の改革 29年間 質素倹約
新田開発
税率アップ
上米
江戸改革
目安箱
洋学緩和
寛政の改革 6年間 質素倹約
棄捐令
株仲間解散
人返し令
出版統制
天保の改革 2年間 質素倹約
棄捐令
株仲間解散
人返し令